みじめな罪人
2016年 08月 17日
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
(ローマ7:19〜21)
パウロはローマ7:24で
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と、自分をみじめな人間だと言います。
また、パウロは自分のことを第1テモテ1:15で「私はその罪人のかしらです。」とも言っています。
『みじめな罪人の頭』と、自分のことをそう言うパウロは、聖書の基準にかった正しいことをしたいと願っているのにそれができず、かえって、したくない悪を行なってしまうと嘆いています。
わたしはその箇所から「え?これがイエス様の声を聞き、救われて、数々の伝道旅行をし、人々を救いに導き、教会を建て上げ、迫害にあい、多くの書簡を残した晩年のパウロの言葉?」と思いましたが、
「正しいことをしたいと願っているのにそれができず、かえって、したくない悪を行なってしまう。」と言うパウロにとても共感を覚えました。それは、まさにわたしの姿だからです。
これがクリスチャンの現実の一面です。このような苦悩を味わったことのないクリスチャンはいません。
クリスチャンだからこそ、罪と戦い、
自分の弱さを嘆き、自分をみじめだと思います。
残念なことに、そこで、「自分はもうクリスチャンじゃない。」「神様を遠くに感じる」「こんなわたしはクリスチャンとしての資格が無い。」と、信仰を捨てる人がいることです。
しかし、そこで終わらないのもまた、クリスチャンです。
パウロのように、みじめさは一転して、キリストへの感謝へと変わります。
自分のみじめさから目をそむけず、救いを求め神様を見上げた時、そこに十字架のイエス様を見るからです。
このわたしのみじめさから救うために、イエス様は身代わりに死んでくださったのです。
死ぬべき私の代わりに、イエス様が死んでくださったのです。私たちの罪を赦すために身代わりなって下さったのです。
また、わたしたちは同じような罪を犯して、同じようにみじめさを覚えるでしょうけれど、何度も赦され回復します。主がいつも一緒におられるからです。
ですから、愛のお方、イエス.キリストを通してわたしたちは、ただ、神様に感謝するのみなのです。
ローマ8:1〜3
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
2016 8/17
写真
教会でバーベキューをしにキャンプ場に行きました。