イザヤ40:6〜8
2016年 09月 08日
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
(イザヤ40:6〜8)
昨日は主人と2人で、久しぶりに車で出かけました。
出かけたと言っても、主人が設計した現場を見に行き、帰りに買い物をして帰って来ただけでしたが。
主人は、台風接近に伴い、先日棟上げをしたばかりの現場が気になっていたし、わたしは台風に備え、買い物をいつもより多くしておきたかったからです。
車から街の様子、人々の様子を見ながら、わたしは急に形あるものの虚しさを感じ、聖書の御言葉が浮かんできました。
第2コリント4:18「 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
わたしも主人も明日の生活のために今日すべきことをしています。それはだれもがしていることですが、わたしたちはそれが順調に行っている時は当たり前のようにそれをしていますが、病や経済的な不安があるとそれは本当に大変なものとなってきます。
私たちは普段生活して生きている現実世界が普通であり、当たり前だととらえているため、目の前にある存在が全てであると考えてしまいがちです。しかし、それはある日突然無くなる時もあるのです。
地震や台風などの自然災害がそうです。
何十年ものローンを組み、やっと建てた家が地震や津波、台風で一瞬にして消えて無くなります。家だけではありません、大切な共に生きてきた大切な家族を一瞬にして失います。
第2コリント4:18ですが、ここでいう「見えないもの」とは、父子聖霊、天国など霊的世界を指しています。
一方で現実世界に生きる私たちの肉体やその他の形ある物質は「見えるもの」です。
使徒パウロは、「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」と言っています。理由は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くから」と書いています。
「形あるものはいつか壊れる」の言葉どおり、肉体や物質はやがては朽ちて消えます。しかし、霊的世界の神の霊は消えることなく永遠に存在し続けます。だから私たちは永遠の存在である霊とその世界に着目すべきであると言っているのです。
けれど、私たちは普段生活して生きている現実世界では目の前にある肉体や物質が存在の全てであると考えてしまうので、それを失う不安や恐怖を消し去ることができません。
そうすると、昨日のわたしのように、街の風景を見て、ふと、形あるものに対する虚しさや人のはかなさを感じてしまうのです。
でも、わたしはクリスチャンです。
この目に見える世界をお造りになったのは全能なる神様ですから、この世の現実世界に失望落胆したり、それを否定したりせず、むしろ神様による永遠がこの先にあるという視点を得ることで、限りある現実世界の人生を、より希望ある輝くものにすることができるのです。
ですから私たちは、現実世界にたとえ試練があるとしても、それをただ苦しいだけのものととらえるのではなく、神によって与えられた使命を持って生かされていることを聖書の言葉から学び成長していくことに喜びを見出す者となりますように。
♬主は今 生きておられる 我がうちにおられる
すべては主の御手にあり 明日も生きよう 主がおられる ♬
今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
2016. 9/8
写真
菊江母とわたし。小学校1年。