愛と憐れみの神様
2016年 11月 29日
(詩篇103:8)
わたしの両親は良い意味でも悪い意味でも神という言葉を口にしませんでした。たとえば、「神様のおかげだね。」とか「そんなことをすると神様のバチ(罰)が当たるよ!」とか言われた記憶が無いのです。
両親が無神論者だったのか、それは分かりませんが、父は「人間とはこのようなものだ。だから、気をつけなさい」というような視点を持って育ててくれたように思えます。
それはひとえに子供を守るための教えだったのでしょう。
その父の教えの中に「宗教に気をつけなさい」というものがあったように感じます。
わたしの中で神と宗教が結び付いていたか記憶にありませんが、初めて「神」という言葉を聞いたのは、わたしの主人からでした。
主人と初めて会話らしい会話をした時、「僕は18の時からずっと神のことを考えているんだ。」と言ったのです。初めて会話を交わした相手に「いきなり神ですか?変な人。。。」と思いましたが、その時の神様の印象は何かとても「崇高」なイメージを受けました。
それはそう話す主人の真剣さからきたのかもしれませんが、わたしの中に初めて「神」の存在が入ってきた瞬間であったと思います。
このことを思うと、神様がどのような方であるかというイメージは、人の生き方を大きく左右すると思います。
わたしの両親が神様を「罰を与える存在」として子供のわたしに語っていたら、神はいつも怒っていて、天罰をくだす存在だと思い、そこには平安がありません。
主人から「神」の言葉を聞いた時、拒否反応がでていたかもしれません。
しかし、そうならなかったのは、神を語らなかったけれど、人間の罪深さを教えてくれた両親と、神を真剣に求めていた主人との出会いが、わたしへの神様の導きであったと思います。
詩篇103篇はダビデ王によって書かれたものです。ダビデは神を心から愛した人物でありながら、大きな罪を犯してしまった人物ですが、ダビデは、神は正義であると同時に、あわれみと愛に満ちた方であることを詩篇において証言しています。
そして、「神様はご自分を恐れる者をあわれまれる」とダビデは歌っています。
人が義と認められる方法は、神を信じ、従おうとする信仰と、神のあわれみによる「罪の赦し」です。
「罪深さ」
父がわたしに言っていた「人間とはこのようなものだ。だから、気をつけなさい」という教えが、「自分の罪深さ」に向いた時、わたしの罪の身代わりになってくださったイエス様を通して、神様の愛、憐れみを知りました。
わたしたちは「信仰」によって、神のあわれみと愛のゆえに神に受け入れられることができるのです。
詩篇103篇は神の素晴らしさをほめたたえるダビデの賛歌です。
わたしたちも神様のあわれみと愛に目を留めて、ダビデと共に主をほめたたえましょう!
詩篇145:8~10
「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
主はすべてのものにいつくしみ深く、
そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。
主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。」
今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
2016 11/29
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