お暇な時に見てね


by yuuchinpuutan

イブ礼拝

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ4:11~13)

昨日はイブ礼拝で、わたしは今年も受付の奉仕でしたが、教会が初めてという男性と礼拝が終わってから少しお話をしました。
「どうして教会に来ようと思われましたか?」とお聞きすると、「幸せになりたいからです。」と男性は答えられました。
先日教会にいらした男性に同じことをお聞きしたら「寂しいからです。」とおっしゃいました。

そしてわたしは今回もなんと答えたら良いか分からず、「そうですね。わたしも幸せになりたいです。」
また、そんな答えしか言えないわたし。。。

『幸せになりたくて教会に来たのに、ここにも無いのか?。。。』と思われるかな?と思いましたが、クリスマス礼拝にお誘いすると、明後日から2ヶ月間インドにいくので、その準備で来れないとのことでした。
でも、帰ってきたら3月からまた来ますからと約束されて帰って行かれました。

しあわせの青い鳥を探しにインドにいくのでしょうか?
帰って来てみたら、しあわせの青い鳥は家の近くの教会にいた!となって頂きたいです。

人間は、この世に生まれた時から、幸福を求める旅に出るような者でしょう。みんな幸福になりたいのです。そして、幸福を求めて旅をするのですが、探している幸福はどこにも見つからない。

いったいわたしたちのほしい幸せってなんでしょうか?

お金?名誉と権力?快楽?愛する人?しかし、これらのものはいつか無くなります。無くなるから、無くなった時の事を考えて不安になるので、心の底まで満足させる幸せはそこにはありません。

わたしたちは何故寂しいのでしょう。

それはすべての人の最後が死であることを知っているからではないでしょうか?
だから、寂しいのでしょう。生きている間に幸せになりたいのでしょう。

そこを人や物でうめようとするのでしょう。

しかし、誰によっても、また何によっても満たされない寂しさ。そういう心の穴が私たちの心の中にあります。
 
パスカルはクリスチャンですが、有名な著書パンセにおいて、「人間には神によってしか埋められない空洞がある」と言いました。
その空洞を感じている自分。その空洞を埋めてくれる存在を求めている自分。そして、それは神様を求めている自分であることに気付き、教会に永遠の幸せを探しに来た人は大正解でしょう。

なぜならば、御子キリストの十字架を通して神に立ち返った人の心に与えられる平安と幸福は、決して空しいものではないからです。

永続的な確信を与えるものであり、心の底から満足を与える内面的な平安です。
真の幸せは、人や物、環境、年齢に左右されないものです。
死の前には人間はみな無力ですが、真のクリスチャンは、死を超越した望みというものを持っています。

クリスチャンのルソーは死に際にこう言ったそうです。
「気を落とさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいるのだろう。私はあそこへ行くんだよ。」と。

なんと平安な心でしょう。なんて、残される人への希望の言葉でしょう。

今日のピリピ4:11~13は死を超越したパウロの言葉です。
わたしはこのパウロの生き方に憧れます。
そして、
第2コリント4:12
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

ここにわたしたちの地上での幸せを得る鍵があると思います。

詩篇73:28

「しかし私にとっては、 神の近くにいることが、しあわせなのです。 私は、神なる主を私の避け所とし、 あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
イブ礼拝_d0100239_12113899.jpg

by yuuchinpuutan | 2016-12-28 12:10