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by yuuchinpuutan

甘え

知れ。主は、 ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。 私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(詩篇4:3)

今朝は祈りの中で、「甘え」について考えていたら、詩篇4:3に導かれました。

わたしたちの生活の中で自分では予想もしていなかったことが起こることがあります。それがサプライズな嬉しいことなら良いですが、突然の試練に見舞われることもあります。
「試練に見舞われる」という言葉が気になったので調べていたら、類語として、 「いばらの道を歩む ・ 十字架を背負う ・ 貧しさに喘ぐ ・ 原罪を抱える ・ 苦しみを背負う ・・ 苦難の道を歩む ・ 重荷を背負う 受難の道 ・ 虐げられて生きる 」が出てきてびっくりしました。

すべてイエス様につながる言葉ではありませんか。
ここから、わたしたちの試練をイエス様は身代わりになってすでに受けて下さったと思ったのでした。

ここに「父なる神様の愛」を思い、感謝しました。

わたしたちは突然の試練に驚き嘆きますが、「神様は私をとっても愛してくれている、自分は神様のお気に入りだから、わたしを悪いようにはしない。」と信じ頼るものでありますように。

マタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます」というイエス様のわたしたちへのお勧めから、
「父が自分に良いものをくださらないはずがない。深い信頼を父なる神様に抱きなさい。 もっと神様に甘えなさい。」と教えてくださっています。

たとえ、罪を犯しても神の愛と赦(ゆる)しを期待して飛び込んで行けた人は「神様の愛」の前に悔い改めることが出来て救われます。

しかし、 神様はわたしたちを愛していますが、決して甘やかしはしません。
なぜなら、神様の愛は人を育て活かしますが、甘やかしは成長を留め、人をだめにします。

キリストの体である教会は神の愛で結び合わされた共同体ですが、決して甘えによって居心地のよさを与えるための交わりではないということをいつも心に留めたいと思います。

神様は愛の神ですが、同時に義の神で あることをも忘れてはいけないと思いました。

神の愛を人間の愛と同質の情的なものである と考えて、罪の自覚も悔改めの気持ちもなく、情にほだされたり、甘えだけを受け入れてしまってはいけないと思います。
神様の愛は義と共にある愛 だからです。

詩篇4:3~5

「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。  セラ
義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 12/28
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by yuuchinpuutan | 2016-12-29 12:42