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by yuuchinpuutan
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どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
(ピリピ1:20~21)

聖書通読 ピリピ1章

今日からピリピ人への手紙を通読します。
パウロは第2回伝道旅行の際にピリピで教会を始めました。この教会はヨーロッパ大陸で設立された最初の教会です。
そして、ピリピの教会はパウロがローマの獄中にいる時、エパフロデト(教会のメンバー)にパウロへの贈り物を届けさせました。
パウロは贈り物の感謝を伝えるため、また、彼らの信仰を励ますためにこの手紙を書きました。

ピリピ1章の
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」というパウロのことばは大変印象的です。
これはどのような気持ちからパウロは言ったのでしょうか?

パウロの受けた数多くの苦しみは、簡単なものではありませんでしたし、ローマでの獄中生活も大変くるしかったので、「そろそろ天国に行きたい」とパウロは思ったのでしょうか?

いえ、そうでは無く、地上はイエス様の福音を宣べ伝えるために自分にとって素晴らしいところ。
でも、天には御父とイエス様、そして先に天に帰った旧約の聖徒たちもいるのですから、もっとすばらしいところと思っていたのだと思います。

ですから、獄中で生きているパウロにとって、ピリピの教会からの贈り物は大変うれしかったことでしょう。

それに答えるようにパウロは「獄中にあってもわたしはあなたがたを愛し贈り物に感謝しています。
ここで死ぬかもしれませんが、生きるのも死ぬのもキリストの福音のためと、わたしは喜んでいるんですよ。」とパウロを心配しているピリピの人達をむしろ励ましているのだと思います。
獄中の中にあっても神様を喜び、賛美するパウロの姿に現在のわたしたちも大変励まされます。

先日84歳の姉妹とお話をする中で、姉妹が「世の中戦争や災害とどんどん悲惨なことが起こり終末が近付いていますね。」とおっしゃり、創世記の初めからバベルの塔の聖書の話をわたしに淡々と話しておられましたが、穏やかな表情の中に、キリストに在るクリスチャンの平安を見せていただいたように思い感謝でした。

神様、この84歳の姉妹のように、今の環境に左右されない、内にある幸いを噛みしめつつ歩めるクリスチャンをさらにこの地上に増やしてくださいますようにお願いいたします

ピリピ1:8~11
「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」

今日もみことばに感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン

2017 12/17

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ピリピの遺跡群
前356年アレキサンダーの父マケドニヤ王フィリッポス2世が自分の名前からピリピと命名した
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by yuuchinpuutan | 2017-12-17 06:22

完全な者に。

終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
(第2コリント13:11)

聖書通読 第2コリント13章

第2コリントも最後の章になりました。
ここでのパウロの願いは、コリントの教会の兄弟姉妹が、それぞれ聖徒にふさわしく、「正しい行いをしてもらいたい」ということでした。

9節で、「私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています」と書いています。

第1コリントの手紙では、パウロはコリントの教会の間にねたみや争いがあることを指摘して、あなたがたは肉に属し、ただの人のように歩んでいると言いました。

第2コリントの手紙ではコリントの教会が誤った歩みをしていることにパウロは苦しみ、何とかしてコリントの人々が本当の福音に立ち戻ってほしいという願いのもとに手紙を書きました。

わたしたちは教会生活の中にあっても、不愉快な思いをしたり、怒りを感じたりすることもありますが、互いに考え方や感じ方の違いを赦し合い、認め合い、穏やかな気持ちを持って平和を保つことができますように。

愛の神様はわたしたちの弱さを補ってくださいますから、さまざまな問題があっても、主の御前に静まることができることを感謝します。

どうぞわたしたちの思いをきよめ、神様の御前に引き上げてくださいますようにお願いいたします。

ガラテヤ5:25~26
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/16

サントゥアリオ・デッラ・マドンナ・デッレ・ラクリメ(シチリア島、イタリア)
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by yuuchinpuutan | 2017-12-16 06:59
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
(第2コリント12:9)

聖書通読 第2コリント12章

神様はわたしたちの髪の毛の数さえも分かっておられるお方ですから、わたしたちの1番弱いところを、知っておられて、むしろその弱さを用いてくださり神様の御業をなさいます。

なぜなら、わたしたちも自分の弱さを知っていますから、それが自分の力では無く、神様の御業であることを知って心から喜ぶためです。

そして、神様のなさることは時にかなって美しいですから、神様がわたしたちに働く時、必ず良い結果が残るということを信じて待ち望みたいと思います。

パウロにもいくつか肉体のトゲというものがあったようです。
パウロも人間ですからその弱さを悔しく思ったり嘆いたりしたこともあったことでしょう。
しかし、パウロはその弱さがあるゆえに傲慢にならず、キリストの力が彼の中で働くことのほうが大切であると考えました。

わたしも「これさえあったら今の生活がどんなに楽になるか。」「これがあったらこんなことも出来るのに」と思うことがありますが、無いことを嘆くのでは無く、何故与えといただけないのかを考え、むしろ無いからこそ与えていただいている恵に気付き、感謝する者となりますように。

第2コリント12:10
「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

ガラテヤ6:14
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/15

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サンミッシェルデギレ Saint Michel d’Aiguilhe(ル・ピュイ=アン=ヴレ、フランス)
962年、高さ85mの岩頸の上に造られたロマネスク様式の礼拝堂�サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路として街全体が世界遺産となっており、世界中から多くの観光客が訪れている。
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by yuuchinpuutan | 2017-12-15 06:51

弱さを誇る

だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。
(第2コリント11:29~30)

聖書通読第2コリント11章

教会の牧会者は、いつも教会の人のことを心配しています。
悩みを相談してくる人、病の人、しばらく教会に来ない人など、自分や家族以外の心配がたくさんあります。

また、一番辛いのは自分が原因となって教会員がつまずいてしまうことでしょう。

これは牧師でなくても、わたしたちもあの時の自分の行動や発言があの人のつまずきになったのではないだろうかと悩むことがあります。

わたしは教会に行くようになってから、「人につまずきを与える」という言葉を知りました。
それをはじめて聞いた時、クリスチャンとは常に人のことを考えて、清く正しく生きなければならない、堅苦しい生き方だとも思いました。

そして、ともするとそれは人のせいにすることにもなりかねないような気がして、嫌な気持ちにもなりました。

しかし、み言葉から神様の御心を知るようになってから、人のことで、必要以上に自分のせいだと悩んだり、反対に人のせいにして怒ったりして、心を乱すことはないのだと思うようになりました。

それは、神様がわたしたちの悩み、怒り、つまずきを取り除いてくださることを信じるようになったからです。

そして、悩みも、弱さも、神様を頼るための恵であると、信じるようにだんだん変えられてきました。

しかし、大切な人がつまずいて心が折れている姿を見るとわたしたちの心は痛みます。
そんな時、神様が望んでおられることは、

ローマ12:15
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません」

わたしたちが自分の弱さを持って、泣く人と心一つになって泣くものとなりますように。

第2コリント1:4
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/14

ホーリークロスチャペル(セドナ、アメリカ)

1965年に造られた岩の合間にあるローマカトリック教会
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by yuuchinpuutan | 2017-12-15 06:46

クリスマスライブ

Kishikoさんのクリスマスライブ。
サムエルをゲストに呼んでくださり、大変楽しいひと時でした。
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by yuuchinpuutan | 2017-12-15 06:44

主を誇る

誇る者は、主を誇りなさい。
自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。
(第2コリント10:17~18)

聖書通読第2コリント10章

わたしたちは、実に人の目が気になる存在であると思います。他人に自分がどのように見えているか気になります。

そして、ある人は自信過剰に、ある人は人の目に怯え、また、他人の評価に怯えたくないから虚勢をはっている人もいます。

多くの人がこのどれかに入るように思いますが、どれも感じの良くない姿です。

特に自分を誇る姿は醜いです。
そこには優越感があります。

わたしは昨日、人から聞かれるまま自分の家族が皆クリスチャンであることを話しましたが、そこには信仰者としての優越感があったことを今日のデボーションで気付き反省しました。

「誇る者は、主にあって誇りなさい。

自分で自分を推薦する人でなく、神様に推薦される人こそ、気持ちよく人にも受け入れられる人です。
主に推薦され、豊かに用いられる者となりますように。

ルカ16:15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」

ガラテヤ6:3~4
「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/13

セントジョージ教会(ラリベラ、エチオピア)
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by yuuchinpuutan | 2017-12-15 06:42

恵の会



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今日は教会で「恵みの会」がありました。年配の方々をお招きして、お食事とショートメッセージと工作


わたしは今回初めて料理人で参加。煮込みハンバーグと人参スープを担当しました。

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12月はクリスマスバージョンです。

スンバラシイケーキは牧師夫人作。
美味しかったぁ。


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by yuuchinpuutan | 2017-12-15 06:39

恵を、分かち合う

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
(第2コリント9:10)

聖書通読第2コリント9章

8章に引き続き、献金のことが書かれていますが、ここでは献金を通して「神の恵みを分かち合う」ということがテーマになっています。

わたしたちへの神様の恵はいろいろな形でいただけますが、「お金」も、神様の恵みの一部です。
そして、わたしたちは、その恵みの一部を神様にお返しするという意味で献金をします。
そして献金を通して教会の働きが進められていきます。
献金はわたしたちが置かれている教会の働きのために大変必要なことですから、心から喜んで感謝しつつ、献金をしていきたいと思います。

しかし、わたしたちは仕事がなかったり、病になったり、大きな出費があったりして、献金が思うようにできない時があります。

それが理由で教会に行けなくなるようなことになりませんように。

主は捧げるわたしたちの心をご覧になります。
神様はどのような心を喜ばれるかというと、
5節から「惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意する。」

7節「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにする」

そのような心で捧げるわたしたちに神様は必ず報いてくださいますから、どのような状況にあっても喜んで捧げる者としてください。

7節「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

またこの心がけは献金だけではなく、日々の行いであっても、小さなことを心から喜んで行えるわたしたちでありますように。

困っている人を助けることも大変大切なことです。
見返りを期待しない愛を神様は大変よろこばれます。

イエス様はわたしたちにおっしゃいます。
マタイ25:40
『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

わずかなものからでも精一杯お捧げし、小さな働きでも喜んで神様にお捧げし、助けを必要としている人に手を差し伸べるわたしたちでありますように。

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/12

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ブルーダークラウスフィールドチャペル(メッヒャーニッヒ、ドイツ)

2007年に完成したピーターズントーによる小さな礼拝堂�素焼きのようなシンプルな外見、プラネタリウムのような光降る屋内が特徴的
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by yuuchinpuutan | 2017-12-12 06:52

献金 与える恵

あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。
(第2コリント8:7)

聖書通読 第2コリント8章

第2コリント8章のテーマは「与える恵み」です。
わたしたちは神様に祝福を、恵みを願いますが、パウロはこの章においては、与え施すことを恵みであると言っています。

当時エルサレムの教会が貧窮していたので、パウロはコリントの教会の信徒に献金を募りました。
その際、パウロは迫害を受けて経済的にも大変苦しかったマケドニアの信徒がエルサレムに一生懸命捧げた話をコリントの信徒に語りました。

パウロはこの時、コリントの信徒の人たちとの関係が回復し、信頼関係があったので、献金という微妙なことがらについても大胆に話すことができました。

8節で「こうは言っても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心さをもって、あなたがた自身の愛の真実を確かめたいのです。」と言っています。
ここの他の人々とは迫害の中でも一生懸命捧げたマケドニアの信徒のことでしょう。

これは信頼関係がなければ聞くコリントの信徒の心は動かなかったことでしょう。
誰かと比較されたりすることをわたしたちは嫌がるからです。

それに、献金のことについてお願いする方も自分にではなくても大変話にくいことです。

わたしも教会学校のキャンプや会堂のことなどで、皆さんの前に立って献金のお願いをする時がありますが、なかなかお話しにくいですが、教会の皆さんは捧げてくださいます。

そして、特に「被災地に」「世界の聖書の無い地域に聖書を」という献金のお願いになると予想以上の献金が集まるのは、素晴らしい信仰だと思います。
それはわたしたちがその問題を自分の身に置き換えて考えるからでしょう。

ここで思うことは、貧しいやもめの神様に捧げる姿をイエス様が見て語られたことです。

マルコ12:43
「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
と貧しいやもめを祝福なさいました。

実際このようなことはあります。
お金持ちが、貧しい人たちをささえるのではなく、貧しい人たちが、同じ貧しさの中にいる人たちを助けるのです。
それは、その貧しさの痛みを自分自身が知っているからです。同じ痛みを持っている人が、他の人たちの痛みを感じることができるように、多くの必要は同じ必要を持っている人によって満たされることが多いように思います。

パウロは迫害を受け貧しい中からたくさん捧げたマケドニアの信徒の話、そして、分け与えることについて、わたしたちの主イエス・キリストについて話しています。

第2コリント8:9
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 わたしたちは、イエス様から永遠の救いという霊的な富をいただきましたから、わたしたちの今いただいている恵を能力に応じて、今あるものを捧げることができますように。

義務的にならず、主との交わりの中で、そして、兄弟姉妹との交わりの中で喜びつつ捧げることができますように。

マタイ25:40
「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。
2017 12/11

シパキラの教会(クンディナマルカ県、コロンビア)

塩山の地下に造られた教会
この地下には14の礼拝堂があり、いづれもキリスト像が祀られている。
1954年に着工し、一度は安全のため建設が中止になったが、1990年に完成した。
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by yuuchinpuutan | 2017-12-12 06:50

悔い改める

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
(第2コリント7:10)


聖書通読 第2コリント7章

7章では、パウロがコリント教会の信徒を信頼している様子が描かれています。

第1の手紙でパウロはかなり厳しくコリントの教会を非難し、彼らに悲しみを与えはしたものの、彼らはきっと悔い改めて立ち直ってくれるはずだと、テトスに対して誇ったと告白しています。

そして、事実その信頼は裏切られることなくコリント教会はテトスを温かく迎えてくれたことで、ますます信頼は深まったと書かれています。


今日の御言葉から、悲しみには「神の御心にそった悲しみ」と「世の悲しみ」の2つがあるということが分かりました。

クリスチャンも悲しみがあります。絶望感に陥ることもあります。
しかし、わたしたちは主の愛と恵みを知って救われた者ですから、絶望の中に希望の光を見ることができるのです。

自分の弱さや惨めさの中にあって、神様に自分の罪深さ、失敗、後悔をありのまま告白した時、わたしたちは希望の光を見ます。

つまり、悲しみを通して悔い改めるとき、それは「神の御心に添った悲しみ」となります。
そこには、希望と喜びがあります。


しかし、悲しみから自己憐憫におちいったり、悲しみを人や環境のせいにしているなら、それは「この世の悲しみ」になってしまい、それは死をもたらします。

ここから、対照的なイエス様の弟子を思いました。

イエスを裏切ったペテロは、自分の過ちの大きさに悲しみましたが、悔い改めて立ち上がりました。

しかし、イエス様を裏切ったユダは自分のやったことを悲しみ自殺しました。

ペテロは悔い改めて「御心に添った悲しみ」となりましたが、ユダは「この世の悲しみ」を選んだ結果、死にました。

わたしたちも今の辛い現実から「この世の悲しみ」を選ぶことがないようにいたしましょう。

「神様はわたしに何もしてくれない。」と嘆き、信仰を捨てることがありませんように。

神様はわたしたちが悔い改め、神様からの祝福を選ぶことを願っておられます。


しかし、わたしたち人間は罪の性質がありますから、クリスチャンになっても、高慢な部分がまだ多く残っているし、頑なな心がありますから、神様はわたしたちを悔い改めへと導くために、悲しみをお与えになります。

そうなさるのは神様がわたしたちを信頼なさっているからです。
必ず神様のところに帰ってくると神様も期待なさっておられるからです。

もし、わたしたちが「自分が何でこんな目にあうのだろう。」「あいつだって悪いじゃないか」「あいつさえいなければ。」と、心を固くして怒ったり悲しんだりしていると、わたしたちの人生は世の悲しみで終わってしまいます。

神様、わたしたに悲しみがあるときは、その中にある原因となっていることに気付かせて、わたしたちが悔い改めることができるように導いてください。
そして、失望を希望に替えてくださいますようにお願いいたします。

ローマ5:5
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

今日もみことばに感謝して、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017 12/10

マリンガ大聖堂(パラナ州、ブラジル)


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by yuuchinpuutan | 2017-12-10 06:23