お暇な時に見てね


by yuuchinpuutan

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備え。

ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。
(使徒27:25)

先日テレビで、外国のドッキリカメラを見ました。その国の名前が知れた女優がターゲットになっていましたが、乗っている飛行機が事故で機内がパニックになった時、その女優がどのような行動をとるかを見るものでした。

その人は世話好きな優しい人と言われていたようですが、死ぬかも知れないという土壇場でのパニックぶりはすごかった!乗務員の言うことは聞かない、周りの人に食ってかかる、自分だけ助かろうと人を押しのけるの錯乱状態。

テレビを見ていて驚き呆れたけれど、
人間「死ぬかも知れない?!」という立場になったらどうなるか分かりません。

日頃「死にたい!」と言っている人間が一番「死にたくない!」と騒いでいるかもしれません。

わたしは昨夜、一人電車に乗っていて「今、ここで大地震が起こり電車が転覆したら、わたしはどんな行動を取るだろうか?」と考えました。テレビ番組の影響があったのかもしれません。

もし、そうなった時、わたしはパウロのように神様が働いてくださることを確信し、周りの人を励ますことが出来るでしょうか?

ここで思いだしたのは三浦綾子さんの実話を元に書かれた「塩狩峠」です。
クリスチャンの主人公、鉄道職員の永野信夫は、客車の最後尾の連結が外れて逆走、満員の乗客に死が迫った時、彼は線路に飛び降り、その身体で車輪を止め、自らの命と引き換えに乗客の命を救いました。

三浦綾子さんは小説の中で永野信夫とキリスト教との関わりを描いていますが、「神が与えたもの」「これが俺の運命だ。命の正しい使い方だ」と言わせています。

ここで、彼の自己犠牲にわたしたちはイエス.キリストを重ねて涙します。

「塩狩峠」は、わたしが三浦綾子さんの小説で一番初めに読んだものです。その時はクリスチャンではありませんでしたが、その本がきっかけになり、次々と三浦綾子さんの作品の虜になったことは、わたしがイエス様に心を囚われたことなのでしょう。

わたしは今日のみことばから、神様を信じ、人を励まし、主を伝える者として用いていただきたいと思わされました。

使徒27:22
「しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 11/30
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by yuuchinpuutan | 2016-11-30 09:57

ワケありありりんご

苦悩するりんご。
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by yuuchinpuutan | 2016-11-30 09:55

愛と憐れみの神様

主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのにおそく、恵み豊かである。
(詩篇103:8)

わたしの両親は良い意味でも悪い意味でも神という言葉を口にしませんでした。たとえば、「神様のおかげだね。」とか「そんなことをすると神様のバチ(罰)が当たるよ!」とか言われた記憶が無いのです。

両親が無神論者だったのか、それは分かりませんが、父は「人間とはこのようなものだ。だから、気をつけなさい」というような視点を持って育ててくれたように思えます。

それはひとえに子供を守るための教えだったのでしょう。

その父の教えの中に「宗教に気をつけなさい」というものがあったように感じます。
わたしの中で神と宗教が結び付いていたか記憶にありませんが、初めて「神」という言葉を聞いたのは、わたしの主人からでした。

主人と初めて会話らしい会話をした時、「僕は18の時からずっと神のことを考えているんだ。」と言ったのです。初めて会話を交わした相手に「いきなり神ですか?変な人。。。」と思いましたが、その時の神様の印象は何かとても「崇高」なイメージを受けました。

それはそう話す主人の真剣さからきたのかもしれませんが、わたしの中に初めて「神」の存在が入ってきた瞬間であったと思います。

このことを思うと、神様がどのような方であるかというイメージは、人の生き方を大きく左右すると思います。

わたしの両親が神様を「罰を与える存在」として子供のわたしに語っていたら、神はいつも怒っていて、天罰をくだす存在だと思い、そこには平安がありません。
主人から「神」の言葉を聞いた時、拒否反応がでていたかもしれません。

しかし、そうならなかったのは、神を語らなかったけれど、人間の罪深さを教えてくれた両親と、神を真剣に求めていた主人との出会いが、わたしへの神様の導きであったと思います。

詩篇103篇はダビデ王によって書かれたものです。ダビデは神を心から愛した人物でありながら、大きな罪を犯してしまった人物ですが、ダビデは、神は正義であると同時に、あわれみと愛に満ちた方であることを詩篇において証言しています。

そして、「神様はご自分を恐れる者をあわれまれる」とダビデは歌っています。

人が義と認められる方法は、神を信じ、従おうとする信仰と、神のあわれみによる「罪の赦し」です。

「罪深さ」
父がわたしに言っていた「人間とはこのようなものだ。だから、気をつけなさい」という教えが、「自分の罪深さ」に向いた時、わたしの罪の身代わりになってくださったイエス様を通して、神様の愛、憐れみを知りました。

わたしたちは「信仰」によって、神のあわれみと愛のゆえに神に受け入れられることができるのです。

詩篇103篇は神の素晴らしさをほめたたえるダビデの賛歌です。

わたしたちも神様のあわれみと愛に目を留めて、ダビデと共に主をほめたたえましょう!

詩篇145:8~10

「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
主はすべてのものにいつくしみ深く、
そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。
主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 11/29

写真
父の絵
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by yuuchinpuutan | 2016-11-29 12:47

回転寿司

回転寿司でサババーガーとラーメンでお腹いっぱい。

〆はマグロの大トロ。
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by yuuchinpuutan | 2016-11-29 12:45

アドベント第1週目

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル13:15)

今年もクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。
教会や自宅をクリスマスリースで飾り、賛美の練習にも熱が入ります。

わたしは昨日のアドベント1週の礼拝で「御園シスターズ」と して賛美させていただきました。

わたしは「箱舟」というチームでも賛美していますが、先日はわたしのミスから練習のダブルブッキング!
ある姉妹のお怒りに触れ、その日はかなり凹みました。

わたしは最近たくさんのことを抱えすぎてはいましたが、それは言い訳にはなりませんから、ただひたすら謝りましたが、「そんなに怒らなくても。。」という姉妹に対して怒りも持ちました。

しかし、当人のわたしたちはもちろん、親しきクリスチャンの方々のお祈りによって、関係は直ちに回復し、互いの問題点を反省する時となりました。

イエス様の御降誕をお祝いするクリスマスに忙しさから衝突したり、無理をして体を壊さないようにしなければなりません。わたしはクリスマスによく風邪をひきます。
それでは、イエス様が悲しまれるでしょう。

ホセア14:2
 「あなたがたはことばを用意して、  主に立ち返り、そして言え。  「すべての不義を赦して、  良いものを受け入れてください。  私たちはくちびるの果実をささげます。」

わたしたちの罪の犠牲になるために生まれてくださった主イエス様のお誕生日を祝うクリスマスに、悔い改めに導かれ、和解させてくださった主に感謝いたします。

そして、アドベント第1週目に平安な心で賛美のいけにえを捧げることができましたことも心から感謝いたします。

第1ペテロ2:5
「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2015 11/28

写真

昨日の教会学校のメッセージのために描いた絵。
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by yuuchinpuutan | 2016-11-28 06:10

クリスマス飾りつけ

クリスマスの飾りつけをしました。
放蕩息子の絵の横で孝行息子。
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by yuuchinpuutan | 2016-11-25 06:18

感謝

あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
(コロサイ3:17)

わたしたちクリスチャンは、神様、人に対してよく「感謝」という言葉を使います。
「感謝の礼拝を捧げる」「お祈り感謝します。」と、言うようにです。

しかし、わたしたちは礼拝の時間に遅れまいとして、イライラと先を急ぎ、家族に当たり散らしたりすることはないでしょうか。

わたしの過去の話をすると、わたしの家族は毎週家族で礼拝に出席していましたが、姑とぶつかった週明けの日曜の礼拝は1番前に座る姑の背中を見ながらイライラして、とても感謝な心を持って礼拝ができませんでした。

しかし、わたしの場合は、姑がいたから、姑とぶつかったから、教会に救いを求め、イエス様に救っていただきました。
そのことを思う時、日曜の礼拝では、自分がいただいているものすべて、喜び、悲しみ、怒りさえも主の前に捧げ感謝に変えていただこうと思います。
そうすることで、日常すべての面でイエス様に感謝の生活が出来るでしょう。

そして、わたしたちが「感謝、信仰、希望、愛」によってイエスさまの代理となるような行いをし、家族、友人、周りの人々を、イエスさまのもとに導くことができますように。

(コロサイ3:15)
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。
そのためにあなたがたも召されて一体となったのです。
また、感謝の心を持つ人になりなさい。」

今日も主が感謝と喜びを与え、私たちの心に平和を与えてくださることを感謝し、救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 11/24
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by yuuchinpuutan | 2016-11-24 06:30

豚骨ラーメン

今日はラーメン🍜

やっぱり麺が好きだぁ。

明日は雪らしい。。
しかし、明日は祈祷会とクリスマスの飾り付けと賛美の練習があるから、何としても、なんとしても!教会に行かねば!

あ。。眠くなってきた。。。
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by yuuchinpuutan | 2016-11-24 06:29

信頼するべきもの

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。 神は、われらの避け所である。  セラ
(詩篇62:8)

わたしは毎朝、起きるとすぐ、机に向かい、祈り、聖書を開き、御言葉を黙想し、みなさんと分かち合うために、今日示された御言葉から感じたこと、思いついたことを書いていますが、今日はかなり頭がぼんやり重いです。
あまり寝ていないせいかもしれません。

わたしは昨夜、横になってから1時間以上1つのことを祈り続け、ただただイエス様に助けを求めました。
それは、神様の前に自分の心の奥底から湧いてくる不安を差し出して、委ねる祈りでした。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ・・・あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」詩篇62篇にあるように、夜の暗闇の中でわたしは一人不安を神様に差し出す苦しい祈りをしました。
誰かに一緒に祈って欲しいとおもいましたが、私が祈りを捧げるのは天地万物の創造主です。自分でなんとかしようとあせる必要は無く、すでに共に祈っている方が神様の導きにより、きっといらっしゃると信じました。

そして、ただ、「主よ。主よ。助けてください」と混乱した心を注ぎ出していましたが、しばらくすると、神様から来る「望み」が見え始めたような気がして心が落ち着き、眠ることができました。

わたしたちには日々多くの不安があります。しかし、神様の力に安らぎを得る時、わたしたちは不安に囚われること無く平安をいただけるのです。

不安に勝利するために、神様を信頼して、わたしたちの心を神の御前に注ぎ出しましょう。
神様は、われらの避け所です。

イザヤ26:4
 「いつまでも主に信頼せよ。  
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 11/23

(写真)相模川 撮影 Mayuko
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by yuuchinpuutan | 2016-11-24 06:26

つまずきの石

それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
(ローマ9:33)

キリストを信じることは、賢い人には愚か(つまずきの石)なのでしょうか?

我が家は娘が小学四年生の時、家族みんなで突然教会に行き始めました。
ひとり娘の年齢から、我が家の歩みを思い出すのは、どれだけわたしたちが娘を大事にして、中心に置いているかが分かり自分でも苦笑しますが。

ところで、後から教会の姉妹から聞いたことなのですが、ノンクリスチャンのわたしたちが家族全員(主人、主人の母、娘、わたし)で突然礼拝に来て、翌週からも毎週休むことなく礼拝に来るようになったことは、教会のみなさんにとっては驚きで、これはすごいことだと話ていたようです。
教会内で話題沸騰の家族だったわけです。

そして、教会に行く前から家族ぐるみで交際していた娘の友人家族がご近所にたくさんいたのですが、誰にも話すことなく我が家が教会に行き始めたのですから、こちらの仲間も大変驚き、話題沸騰になったわけです。

我が家では、御言葉が生活の中心になりましたから、考えかたも生活も180°変ったのでした。
それまでは娘の将来も良い学校、良い仕事、良い出会いがあれば、それが幸せと思っていましたから、一生懸命勉強をさせていました。高学歴、高収入の考え方です。
もちろん、学問はとても大切です。将来学ぶことで生活の安定も得られるでしょう。
しかし、人間の賢さこそが人間の限界なのではないかと思うようになりました。
学問も特技も地位も名誉も、そこに「愛」がなければ、人は何かあれば一瞬にしてそれら全てを失うのです。
自分の賢さだけに頼るなら、自分に失望する日が来るでしょう。

しかし、イエス.キリストを信じ、信頼する者はその信仰の愚かさによって、人間の限界を超え実を結びます。

躓きの石とは救い主イエス様のことで、イエス様は「イスラエルの教えは正しいが行いを真似てはならない」と教えました。
パリサイ派の人々や律法学者の行いには信仰が伴って居なかったのでした。
それ故に、神の愛を説かれたイエスの教えに彼らは躓きました。

イエス様の教えはこの世の価値観と反対なので、多くの人々は自分の意思をキリストに委ねようとはしません。

わたしの中にも未だに、この世の楽しみを求める気持ちがありますが、今、神様からいただいている喜びも悲しみも全て実を結ぶ時があると信じて、救い主イエス様を信頼し従って行こうと思います。

イザヤ8:17
「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 11/22
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by yuuchinpuutan | 2016-11-22 07:53