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by yuuchinpuutan
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<   2016年 12月 ( 37 )   > この月の画像一覧

2016. 12/31

あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
(詩篇37:5)
2016年も今年で最後になりました。

1/1に導かれた年間聖句
詩篇37:5「あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」は、わたしに力を与えてくださり、2016年を元気にスタートしました。

ダビデは主を喜びとし、行いのすべてを神様に委ねるように呼びかけています。

そのためには、わたしも神様の御言葉をいただき応答しなければということで、毎朝デボーションをして、皆さんに分かち合いをさせていただきました。

わたしからの一方的な発信ではありましたが、共に分かち合いをしてくださる方にも導かれ、励まし合いと、お祈りの時をもたせていただきましたことを、心から感謝いたします。

今年我が家は御言葉のごとく、主を信頼し、委ねて参りました中でも、色々な問題も起きましたが、乗り越えてこられましたことを一年を振り返り、主に 感謝しています。

その時は辛く不安であっても、そのことがあったからこそ、神様から励ましていただき、道も示されました。
ハレルヤ!

詩篇37:4
「主をおのれの喜びとせよ。 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」

これは主を喜び、主に拠り頼む私たちに与えられた神様からの約束です。
新しい年も期待して参りたいと思います。

第1ペテロ5:7
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

2016 12/31
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by yuuchinpuutan | 2016-12-31 07:02

ホームカラオケ

年末。家族が揃う。

ホームカラオケするよ。
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by yuuchinpuutan | 2016-12-31 07:01

年越しライブ

教会での年越しライブを数年やっていませんです。楽しかった。
良き思い出。

もう歳だから、準備も含めて疲れちゃう。
子ぱんが司会をやった時が2回あったことを思いだした。

これからは若者がバトンタッチしてやってほしいものじゃ。
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by yuuchinpuutan | 2016-12-31 06:59

嫉妬

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
(第一コリント13:4)

嫉妬について考えていたら、第一コリント13:4に導かれました。

第一コリント13章で使徒パウロは、信仰も、異言も、知識も、たとえ人に物をプレゼントしても、そこに愛がなければ何の値打ちも無いし、何の役にも立たない。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。と、言っています。

どんな愛かというと、寛容で、親切で、ねたまない。自慢せず、高慢にならない愛です。
この中で一番難しいのが、「ねたまない」なのではないかと、わたしは思います。

何に対して妬むかと言うと、自分に無いものを人が持っていると、羨ましいから、嫉妬になり、妬むようになるでしょう。

それは物だったり、容姿だったり、性格だったり、知恵だったりと嫉妬につながるものはたくさんあります。

嫉妬も妬みも同じ意味だと思いますが、「妬み」はなにやら、ねっとりした恨みを伴う感じがします。

何故わたしたち人間には「妬み」という厄介な感情があるんでしょうか。

それはアダムに罪が入ったからです。楽園から追放されたアダムとエバの息子、カインとアベルの話で、神さまが弟アベルのささげ物には目を留め、兄のカインと、そのささげ物には目を留められなかったことで、カインはアベルを「妬み」から殺しました。

これが人類最初の殺人です。
このことから、「妬み」は人間の罪の原始的な恐ろしい感情であると思います。

「妬み」といえば、サウル王も気に入って召しかかえたダビデが人々から賞賛されるようになったら、妬みからダビデを殺そうとしました。

主の霊は嫉妬したサウル王から去り、その後のサウル王の歩みは散々たるものでした。

原罪である罪から来る「妬み」「嫉妬」は誰にもある大変怖い感情です。
これに支配されないようにするにはどうしたら良いのでしょうか?

わたしたちが「妬む」のは神様が下さった物にわたしたちが満足していない時でしょう。

ヘブル13:5に、
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

今、いただいているもので満足しなければいけません。神様はあなたを捨てたりはしないからとおっしゃっていますから。

しかし、クリスチャンもこの地上では金銭に振り回されるし、人の生活が羨ましく思えたりします。

ローマ12:10
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

ローマ12:10は我が家が教会に行くようになって初めて一生懸命に覚えたみことばです。

クリスチャンになっても、「嫉妬心」は時々頭をもたげるし、金銭のことで不安になったりする弱いものですが、神様の憐れみによって守られ生かされていますことを心から感謝いたします。

これからも神様の御言葉に頼り、キリストの愛の香りを放つ者とされるよう祈って行きたいと思います。

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 12/30
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by yuuchinpuutan | 2016-12-31 06:58

与える

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。
父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。
(エペソ6:1~4)

昨夜はわたしたちの教会でユースの集会がありました。クリスマスと望年会を合わせて「クリボウ」。

今年1年を神様に感謝し、来年も期待して迎えるために、集まり、賛美し、共に食し、共に遊びました。

わたしは教会学校のスタッフなので、食事の準備と片付けのために参加しましたが、一番大事なことは彼らの日頃なかなか見れない様子を見て、会話の時を持つことです。

会話の中で見えて来るのは、家族関係、親と子の関係です。

マザー・テレサはよく「愛は家庭から始まる」と言っていますが、家庭に愛があるというのは、決して当たり前のことではありません。むしろ、家族というのはお互いに甘えがありますから我が儘になりやすいのです。

夫婦はもともとは他人で、他人同士の間に生まれてきたのが子供です。

自分と子供は血が繋がっているので、子供は自分でもあるわけで、愛情の表現も子供の人格の尊重より、自己中心から来ることもあります。

そして、他人である夫婦は育ってきた環境が全く違うわけですから、子供への接し方も捉え方も違います。ですから、自己中心では無く自己犠牲の愛がなければ家族はバラバラになってしまうものだということをわたしたちは忘れてはいけないと思います。

心がバラバラのまま一つ屋根の下に暮らすということはどんなに辛いことでしょうか。そんな時、わたしたちは益々自分のことだけを考えて相手を非難し、自分を守ろうとしますが、こういう時にこそ愛が必要でしょう。

 どんな愛でしょうか?

愛とは「どうしたら、この人が幸せになるだろうか」という事を自分のことのように考える気持ちだと思います。

気遣い、正しい言葉をかけ、誠実で愛情を込めた眼差しで相手を見つめることが大事です。

主イエスさまは『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われました。

周囲に愛を示すことでわたしたちは、成長することができ、心は満たされ、自分を取り巻く世界と強い絆を結ぶことが出来ます。

わたしたちは神様から最大の愛をいただいていますから、受けるより与えることの幸いの中に生きていけますように。

愛した人に対して、見返りがなくても、恨まず恩を着せることのないように、赦す心を与えて下さい。

使徒20:35

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 12/29
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by yuuchinpuutan | 2016-12-29 12:52

クリボウ

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昨日は大高中のクリスマス忘年会。クリボーが賑やかに開催され、今年の教会のイベントが終了いたしました。

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1時間にわたる賛美。そして、お食事。カボチャクリームフォンデューなるものも登場。楽しくいただきました。
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ゲームも盛り上がっていましたよ。

若さって素晴らしい✨😊

わたしも若いけど。😛✨


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by yuuchinpuutan | 2016-12-29 12:44

甘え

知れ。主は、 ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。 私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。(詩篇4:3)

今朝は祈りの中で、「甘え」について考えていたら、詩篇4:3に導かれました。

わたしたちの生活の中で自分では予想もしていなかったことが起こることがあります。それがサプライズな嬉しいことなら良いですが、突然の試練に見舞われることもあります。
「試練に見舞われる」という言葉が気になったので調べていたら、類語として、 「いばらの道を歩む ・ 十字架を背負う ・ 貧しさに喘ぐ ・ 原罪を抱える ・ 苦しみを背負う ・・ 苦難の道を歩む ・ 重荷を背負う 受難の道 ・ 虐げられて生きる 」が出てきてびっくりしました。

すべてイエス様につながる言葉ではありませんか。
ここから、わたしたちの試練をイエス様は身代わりになってすでに受けて下さったと思ったのでした。

ここに「父なる神様の愛」を思い、感謝しました。

わたしたちは突然の試練に驚き嘆きますが、「神様は私をとっても愛してくれている、自分は神様のお気に入りだから、わたしを悪いようにはしない。」と信じ頼るものでありますように。

マタイ7:7で「求めなさい。そうすれば与えられます」というイエス様のわたしたちへのお勧めから、
「父が自分に良いものをくださらないはずがない。深い信頼を父なる神様に抱きなさい。 もっと神様に甘えなさい。」と教えてくださっています。

たとえ、罪を犯しても神の愛と赦(ゆる)しを期待して飛び込んで行けた人は「神様の愛」の前に悔い改めることが出来て救われます。

しかし、 神様はわたしたちを愛していますが、決して甘やかしはしません。
なぜなら、神様の愛は人を育て活かしますが、甘やかしは成長を留め、人をだめにします。

キリストの体である教会は神の愛で結び合わされた共同体ですが、決して甘えによって居心地のよさを与えるための交わりではないということをいつも心に留めたいと思います。

神様は愛の神ですが、同時に義の神で あることをも忘れてはいけないと思いました。

神の愛を人間の愛と同質の情的なものである と考えて、罪の自覚も悔改めの気持ちもなく、情にほだされたり、甘えだけを受け入れてしまってはいけないと思います。
神様の愛は義と共にある愛 だからです。

詩篇4:3~5

「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
恐れおののけ。そして罪を犯すな。
床の上で自分の心に語り、静まれ。  セラ
義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016 12/28
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by yuuchinpuutan | 2016-12-29 12:42

ハプニング

今日ね。
パパが留守だったから、ちょいルン♬で1人ランチしに中華屋さんへ行ったよ。😀

そこで、エビ野菜炒め注文して、コートを脱ごうと思ったら、ファスナーが噛んじゃって脱げなくなっちゃった。😱

気持ち焦ったけど、何食わぬ顔😑でなんとかファスナーを下げようとしたけど、ビクともせず。。😵

そのうちエビ野菜炒めが来ちゃって😧、仕方ないから。。。

コート着たまま食べた!!!😫

かっこ悪!
食べにく!
変なおばちゃん!

ちょいルンはすっ飛び、
ちょい凹で早々家に帰った。

そしてセーターを脱ぐように、コートを脱いだ。「こんちくしょー!😤」とばかりに!

はぁ。さえないなぁー😨

なんとかなおしたけど。。。
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by yuuchinpuutan | 2016-12-29 12:40

飢え渇き

主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。(申命記32:10)

どちらの教会も12/24,25とクリスマスのお祝いも終わり、ホッと一息ついている時と思います。

わたしも昨日は友人たちと1年の締めくくりとして楽しい時を持ち、主にある交わりを感謝する時となりました。

そして、28日に教会学校中高科のクリスマス忘年会「クリ忘」をもって今年の教会のお祝い事は終了します。

2016年が始まって、もうあっという間に1年が過ぎました。時間が経つのは本当に早いです。わたしたちは毎日、精一杯生きていますが、その中で時間はあっという間に過ぎ去ってしまいます。

そんな日々の中で、わたしたちが求めているもの、わたしたちが欲しいものはなんなのかを考え、神様にお祈りしていたら「守り」という言葉が浮かんできました。

わたしたち一人一人は、本当に自分を守ってくれる存在を必要としています。これは、全ての人がそうです。

わたしを囲って、いたわり、ひとみのように守り愛して大切にしてくれる存在を必要としています。

申命記32:10はモーセが民に語った言葉です。

モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民のリーダーとなって民を率いてエジプトを脱出しました。

モーセは、当時のイスラエルの人たちの指導者で、イスラエルの人たちを守るために、死ぬほどの苦労をしました。しかし、そのモーセがここで言っていることは、自分がこの人たちを守ってきたということでは無く、神が御自分のひとみのようにイスラエルの民一人一人を大切に愛し守ったのだということを言っています。

今、わたしたちにとって、本当に自分を守ってくれる存在は何でしょうか。自分の家族や友達でしょうか。クリスチャンであれば教会の牧師先生でしょうか?教会の兄弟姉妹でしょうか?

確かに、今、思い浮かぶ存在がある人は幸せです。

しかし、わたしたちは弱いですから、頼っていた人から望んでいたものが得られないと、文句を言ったり恨んだりすることはないでしょうか。

一生懸命イスラエルの民のリーダーとして苦労しているモーセに民は、苦難が襲いかかると、すぐ恨み辛みをぶつけました。人間は本当に自己中心的、身勝手な存在です。

そう考えると、本当にわたしたちにとって支えとなる存在は誰でしょうか?

それは、家族や友達を超え、わたしたちを見つけ、守ろうとされる神様です。

わたしたちを見つけ、囲み、いたわり、守ってくださる。それが聖書の神様です。

神様は、独り子であるイエス・キリストを救い主として、わたしたちのためにお送りくださいました。神はわたしたちを守るために、御自分の最も大切な独り子を、わたしたちのためにお送り、時を越え今もわたしたち一人一人を愛され、守ってくださっています。

今日のわたしたちの、不安、問題はなんでしょうか?誰も助けてくれないと悲観していないでしょうか?

荒れ野のような現実に置かれているわたしたちは、いつも「守り」を求め、飢え渇いています。

イエス・キリストは聖書の中でこう言われました。

ヨハネ7:37~8

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

飢え渇きを覚え、神様に助けを求める人には、かならず時に叶った助け人を神様は送ってくださいます。

ですから、教会に行ってわたしたちを守り救い出してくださるイエス様に出会っていただきたいです。

そうすれば、わたしたちは尽きることのない神様の愛と守りの中に置かれていることを知るでしょう。神様はわたしたちを、ご自分のひとみのように守ってくださいます。

詩篇17:6~8

「神よ。私はあなたを呼び求めました。
あなたは私に答えてくださるからです。
耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。
あなたの奇しい恵みをお示しください。
立ち向かう者から身を避けて右の手に来る者を救う方。
私を、ひとみのように見守り、
御翼の陰に私をかくまってください。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2016. 12/27
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by yuuchinpuutan | 2016-12-28 12:13

イブ礼拝

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
(ピリピ4:11~13)

昨日はイブ礼拝で、わたしは今年も受付の奉仕でしたが、教会が初めてという男性と礼拝が終わってから少しお話をしました。
「どうして教会に来ようと思われましたか?」とお聞きすると、「幸せになりたいからです。」と男性は答えられました。
先日教会にいらした男性に同じことをお聞きしたら「寂しいからです。」とおっしゃいました。

そしてわたしは今回もなんと答えたら良いか分からず、「そうですね。わたしも幸せになりたいです。」
また、そんな答えしか言えないわたし。。。

『幸せになりたくて教会に来たのに、ここにも無いのか?。。。』と思われるかな?と思いましたが、クリスマス礼拝にお誘いすると、明後日から2ヶ月間インドにいくので、その準備で来れないとのことでした。
でも、帰ってきたら3月からまた来ますからと約束されて帰って行かれました。

しあわせの青い鳥を探しにインドにいくのでしょうか?
帰って来てみたら、しあわせの青い鳥は家の近くの教会にいた!となって頂きたいです。

人間は、この世に生まれた時から、幸福を求める旅に出るような者でしょう。みんな幸福になりたいのです。そして、幸福を求めて旅をするのですが、探している幸福はどこにも見つからない。

いったいわたしたちのほしい幸せってなんでしょうか?

お金?名誉と権力?快楽?愛する人?しかし、これらのものはいつか無くなります。無くなるから、無くなった時の事を考えて不安になるので、心の底まで満足させる幸せはそこにはありません。

わたしたちは何故寂しいのでしょう。

それはすべての人の最後が死であることを知っているからではないでしょうか?
だから、寂しいのでしょう。生きている間に幸せになりたいのでしょう。

そこを人や物でうめようとするのでしょう。

しかし、誰によっても、また何によっても満たされない寂しさ。そういう心の穴が私たちの心の中にあります。
 
パスカルはクリスチャンですが、有名な著書パンセにおいて、「人間には神によってしか埋められない空洞がある」と言いました。
その空洞を感じている自分。その空洞を埋めてくれる存在を求めている自分。そして、それは神様を求めている自分であることに気付き、教会に永遠の幸せを探しに来た人は大正解でしょう。

なぜならば、御子キリストの十字架を通して神に立ち返った人の心に与えられる平安と幸福は、決して空しいものではないからです。

永続的な確信を与えるものであり、心の底から満足を与える内面的な平安です。
真の幸せは、人や物、環境、年齢に左右されないものです。
死の前には人間はみな無力ですが、真のクリスチャンは、死を超越した望みというものを持っています。

クリスチャンのルソーは死に際にこう言ったそうです。
「気を落とさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいるのだろう。私はあそこへ行くんだよ。」と。

なんと平安な心でしょう。なんて、残される人への希望の言葉でしょう。

今日のピリピ4:11~13は死を超越したパウロの言葉です。
わたしはこのパウロの生き方に憧れます。
そして、
第2コリント4:12
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

ここにわたしたちの地上での幸せを得る鍵があると思います。

詩篇73:28

「しかし私にとっては、 神の近くにいることが、しあわせなのです。 私は、神なる主を私の避け所とし、 あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
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by yuuchinpuutan | 2016-12-28 12:10