2024年 3/10(日)
御園バプテスト教会主日礼拝
(木下礼拝メモ)
テーマ「我が人間イエス・キリスト」
〜主の受難の足跡をたどる(1)〜
メッセンジャー 丸山悟司牧師
聖書箇所 マタイ26:36〜46
本日の説教のタイトルは『人間イエス・キリスト』ということで、今日から3/31のイースターまで『主の受難の足跡をたどる』といたします。
今日の箇所は十字架に架かられる全段のゲッセマネの祈りの場面ですが、ここにはイエス・キリストの真実な人間性が垣間見られます。
マタイ26:37に"イエスは悲しみもだえ始められた。"とあります。聖書教会共同訳では「イエスは苦しみ悩み始められた」と訳されています。
38節"そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」"とあります。ここも共同訳では「わたしは死ぬほど苦しい。」とされています。イエス様はたとえ一時であってもはなはだ狼狽え、疲弊されたのでしょう。
この後、イエス・キリストの人間性が垣間見られます。"「ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」"と言っておられます。イエス様は自ら孤立することを望まれませんでした。
創世記 2章18節に、"また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」"と神様はおっしゃってアダムにたいしてエバを造られました。神様は初めから人は一人で生きるものでは無く交わりを持って生きる存在になさいました。
イエス様の弟子たちに「わたしと一緒に居てほしい、痛みを共有してほしい。」と訴えている姿にも人間性が感じられます。
そして、なによりもイエス様は父なる神様に祈っておられます。
マタイ26:39"それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。"とありますが、ひれ伏して祈るにはイエス様の心の姿勢が表われています。
そして、"「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。"と、祈られました。
この杯は意味があります。ヨハネの黙示録16:19に"ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。"とあります。ご自分とは神様です。共同訳では"怒りに満ちたぶどう酒の杯"となっています。ですから、杯は神の裁きというものを象徴しています。
イエス様は間も無く十字架に架かり全人類の罪を一手に引き受け、身代わりの裁きを受けようとしておられます。神様の怒りの集中砲火を浴びようとしておられました。
この時、主は霊的な極限状態にあったと言えるでしょう。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。"と、祈らざるをえなかったのです。ここにイエス・キリストの人間性が如実に認められると思います。
あまりイエス様の人間性を強調すると「そういう存在をわたしたちがあてにできるのか?頼りにできるのか?」という疑念が生まれるかもしれませんが、この真実な人間性こそわたしたちの拠り所です。どのような意味で拠り所であるのか二つあげたいと思います。
①そこにわたしたちの救いの拠り所があるのです。
このお方は神であられましたが、わたしたちと全く同じ人間性をまとわれてこの世界にやって来られましたので、わたしたち罪人の代表としてわたしたちの変わりとなって十字架に架かることがおできになりました。
そこに救いがあります。わたしたちの神様に対する罪、自分の神様に対する罪がどれほどかは観念的には分から無いのだと思います。
ドイツの宗教改革者のマルティン・ルターは「わたしたちの神に対する罪がどれほど重大であるかそれは信仰によって受け止めるほかない。」と言っています。わたしたち自身では償い尽くすことは出来ない。ですから、神様であるお方が人として来られて、そして、ご自分のいのちを十字架に捧げ尽くされてその罪の償いを代わりに成し遂げてくださり、罪の贖いを全うされたのです。
ここにわたしたの救いが、罪の赦しの道が開かれています。ですから、神がまことに人のなられることはわたしたちの救いにとってこれは無くてはならないことでした。
新約聖書のヘブル人への手紙2:17に、"したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。"とあります。
"すべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。"とは全てにおいてわたしたちと同じ人間性を持っておられたということです。それで神への民の罪の宥めがなされたのです。
ゲッセマネの祈りはまだ十字架に架かる前段ですがここにも明らかに赦しというものが見られます。
イエス様は3度祈られました。その時、弟子たちに「わたしと一緒に起きていておくれ。」とおっしゃったのに弟子たちは3度とも寝てしまっていました。
マタイ26:43に、"イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。"とあります。
そして、44節"イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。"
そんな弟子たちを叱らずイエス様は、46節"立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」"とおっしゃいました。
失態を演じた弟子たちに「さあ、わたしと一緒に行こう。」と言って弟子たちを赦しておられます。そこにも主の恵があります。そこにわたしたちの救いは確保されています。神が人となられた。そこにわたしたちの拠り所があります。そこにわたしたちの救いがあるからです。
②そこにわたしたちの模範がある。
神が人となられたので、そこにわたしたちの模範があるのです。神のままでしたら、礼拝の対象ではありますが、模範にはなりません。あまりにもかけ離れすぎているからです。しかし、人としてこの世界に来られ33年あまりの生涯を送られましたので、わたしたはこのお方を模範として生きることが出来るのです。
では、ゲッセマネにおけるイエス様の模範とはどういうものでしょうか。
1つは自分に正直であることと言って良いのではないでしょうか。イエス様は臆せず弟子たちの前で、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と心中を述べて、弟子たちに「わたしと一緒に起きていておくれ。」と頼んでいます。
わたしたちは内側にある葛藤や戸惑いと真摯に向き合い、そのような感情を受容して、信頼出来る誰かとそれを共有する。そこに回復の糸口が、癒しのプロセスがあるのではないでしょうか。
そこでイエス様は何よりも、自らの思いを天の父なる神様にストレートにぶつけておられます。
マタイ26:39で、"「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と神様に対しても正直であるイエス様の姿勢からわたしたちも学ぶことができます。
"「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」"と祈られました。
3度祈られましたが2回目の祈りには進展が見られます。
マタイ26:42"イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。"と、一歩前進しています。原文では杯ということばが出て来ていません。
「我が父よ、わたしが飲まなければこれが過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。」とあります。祈ることで何が変わるのでしょうか。祈るわたしたち自身が変えられます。祈りの中でイエス様ご自身も何かを会得されました。
ヘブル人への手紙 5:7〜8に
"キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、"とあり、従順を学んだとあります。御子であるお方でもお受けになった苦しみによって従順を学ばれました。
祈りの中でわたしたちも従順を学ぶます。祈りを通してなお、主がわたしたち自身に働いてくださることを願う者であります。
イエス・キリストは壮絶な祈りをゲッセマネでなさいました。そして、祈り終えると弟子たちに「立ちなさい。さあ、行こう。」と呼びかけられました。主は、祈り疲れたわたしたちに対しても「さあ、立ちなさい。わたしと一緒に行こう。」と優しく語りかけていてくださるのだと思います。
人間イエスと共に新しい週も歩んで参りたいと思います。