裁き
2016年 08月 16日
この箇所はパウロがコリントのクリスチャンに対して、教師への称賛や批判が先走ったものだったので止めるように注意しているところです。
わたしたちは、状況や相手のことを良く理解していないのに、見ていること、知っていること、人から聞いたことで人を判断しがちです。
教会においても、それによって、指導者に厳しい目を向けたり、信徒の間では、気の合う人、合わない人が基準になって裁いてしまうことがあります。
しかし、主だけがすべてをご存知で裁く権利をもっておられます。
わたしたちは相手の罪を指摘することはありますが、それによって自分が上になり、相手を見下したりしてはいけないのです。
罪を指摘された人の回復の時となるべきです。
コリントの教会のように、神への謙遜を忘れ、人に目が行くと、この世の常識や知恵で判断してしまい、先走った、誤った判断となる危険性があります。
全ては、主が来られるときに、明らかになるのですから、くれぐれも先走った判断をしないように注意したいものです。
終わりの日に、主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされ、そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
わたしたちが下に見ていた人が純粋な神様への思いから神様に称賛され、この世では称賛の的だった人が隠していた悪い心や不信仰から評価されないということもあるでしょう。
いつ再臨があるのかは分かりませんが、「そのとき」は来てすべてのことが主の前に、明らかになります。
最後の審判は、それらが正しく評価される時です。
自分の判断で「先走ったさばき」をしないように。いつも主を前に置き、みことばに生きる者としてください。
今日のみことばが、今のわたしの戒めになり、慰め、励ましとなりますように。
救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン
写真
信徒の学び
2016 8/16