弱さを誇る
2017年 02月 15日
(第2コリント12:9)
パウロは自分に1つの大きなトゲがあると言っています。弱みがあったのです。どんな病気であったか知りませんが、これさえなければ、わたしはもっと元気よく、力強く、神様のために働ける。だから、これを早く取ってほしいと三度も祈ったとあります。
目が悪かったとも言われていますがいくつか体に弱いところがあったのかもしれません。
わたしはこのパウロの言葉を読む度に自分の目を思います。
わたしの左目は24歳の時に傷を負ってから見えません。それからは右目の視力だけで生活しています。
慣れてしまいましたが、時折思うのは、目のせいで運転免許が取れなかったことが残念で仕方が無いのです。
「運転免許を持っていたらわたしはみなさんの足になれるのに。。」といつも思うのです。
それで、その思いをある時主人に言ったら「君が免許を持っていたら、あちこち飛び回ってほとんど家にいないだろ?持てなくて良かったんだよ。」と返事が返ってきたことがあります。
主人もクリスチャンですが、わたしが人のために家を空け、家族のことを二の次にするのを快く思っていなかった時でした。
当時わたしは主人の母との同居の息苦しさから、家にずっと家に居るのが嫌でした。今考えると、人のためでもありますが、そこから逃げたいために免許が欲しかったのかもしれません。
「悔しいなぁ。この目さえ見えていれば。。」と何度思ったことでしょう。
そのとき神様は、第2コリント9節を通して、わたしに何度も語られました。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。そのままでいい。欠けがあっていい。わたしの力はあなたの弱いところに完全にあらわれるのだから」と。
もしそのトゲがなかったら、わたしは自分の思うように活動し、自分のしたことを心の中で誇るような人間です。
むしろ、わたしは誇るどころか、このトゲが原因で不安と劣等感を持っています。
このように、今は自分の弱いことを知っていますから、もしそんな自分にできることがあったら、それはただ一重に神様の力によると感謝しています。
ある時、礼拝のメッセージから、励ましをいただきました。
『わたしは右の見える目でわたしの前に置かれた人の、今現在の姿をしっかり見て、左の見えない目では、その人の将来の成長した姿を見る心の目としていただこう。』と思ったのでした。
抽象的な表現ではありますが、わたしはそう礼拝で語られた時、目からウロコが落ちたような、晴れやかな気持ちになり、だから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と思いました。
「弱さを誇る」、これは世間の考え方とは正反対です。世間ではできるだけ弱さは見せてはいけない。人に弱みを握られたら、その人はおしまいというような考えがあります。
むしろ自分のできることを誇らなければ、世間では生きていけないと思う人もいます。
しかし、神様はトゲのある弱さを持ったわたしたちを必要としてくださるのです。「神の力は弱いところに完全にあらわれる」イエス様の力がわたしたちを通してあらわれてくださるのです。
それを知っている、パウロはここで繰り返し「わたしは弱さを誇ろう」と言っています。
わたしは最近は左目だけでなく、右は老眼になり、足は坐骨神経痛になり、胃腸も弱って来ていますが、すべてをとおして、弱い自分であることを認めようと思います。
困難や問題が起こると、「なぜこんなことをしなければならないのですか?」とつぶやく思いが湧いてくる時もあります。「目が見えていたら良かったのに」とも思いますが、わたしの弱さを神様は必要としていると思えるようにだんだん変えられてきました。
そんなわたしだからこそ、イエス様の力を頼ります。「主よ、弱いわたしに力を与えてください」「わたしにはできないけれども、あなたにはできないことはありません」と、主の力を信じて踏み出したいと思います。
第1コリント2:5
「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」
今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。
2017 2/15