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by yuuchinpuutan

熱いか冷たいか。

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
(黙示録3:15~16)

わたしはこの「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」という主の言葉を不思議に思ったことがあります。
「信仰が熱いのは良いに決まっているけれど、冷たくても良いというのはどのようなことなのか?」と。

むしろ「生ぬるい」のが一番良くないとあります。
たしかに、コーヒーにアイスとホットがあるように、わたしたちはどちらかを選び、「熱い」「冷たい」と感じ
それを美味しいと思って飲みますが、
しばらく時間が経って、熱くも無く、冷たくも無くなったものは、あまり美味しいと感じなくなり、勿体無いから最後まで飲むと行った感じになります。
わたしたちの信仰生活をこのコーヒーに喩えると分かりやすくなります。

何年も前になりますが、小学生から教会に来て、中学で受洗し、二十歳を過ぎた青年に「受洗した時はあんなに信仰が熱かったのに、今はあの時の熱さがなくて。。。あの頃に戻りたい。今の状態だと急に教会に来なくなるかもしれない。。。」と話されたことがありました。

わたしは教会学校のスタッフとして、教会でずっと彼を見ていたので、その正直な気持ち、言葉にドキッとしましたが、彼が自分の信仰を冷静に見て、今の冷めた状態を悲しんでいることを主は憐れみ慈しんで下さると思いました。

その青年もあと数年で三十歳になる年齢になり、介護の仕事で夜勤があるため、礼拝には来たり来なかったりしますが、来た時は兄弟姉妹の前に真摯で誠実な姿が爽やかです。
それは、彼がいつもジーザスを慕って生きているのを教会のわたしたちも感じるからでしょう。

神様はわたしたちに「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」と言われます。「はっきりしなさい。」ということです。だから「なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」と、「中途半端だから、返って嫌だ」とおっしゃっておられます。

わたしたち自身も熱かったものが冷めて冷たくなった時、生ぬるいコーヒーを飲み続けるようにではなく、悲しんでまた熱くなるように神様に求めることが大切だと思います。

わたしも24歳の時初めて神様を知っ時の衝撃と喜びは今でも懐かしく、また、あの感動を求めた時期もありました。だから、青年の話を聞いた時、その気持ちがよく分かりました。

しかし、神様はわたしたちには、もっと恵み豊かに、常にいのちと力に満ちて生きる者となってほしいと思っておられます。

わたしたちは、自分のレベルで考えて、「まぁ、このくらいになったからもう大丈夫でしょう」と自らの信仰生活に腰を下ろすのでは無く、イエスさまに熱心であった時代を、懐かしい過去の思い出にするのでも無く、この地上での最後の瞬間まで、互いに励まし合い、いのちに満ちあふれる者でありたいと思います。

ヘブル3:12

「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」
今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。

アーメン。

2017. 2/28
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by yuuchinpuutan | 2017-02-28 08:07