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by yuuchinpuutan

なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
(マタイ7:3~4)

イエス様の喩え話は分かりやすく、そして面白いものが多くありますが、この喩えはすごすぎる。

人は他人のことについてはわかっても、自分自身のことについてはわからないものだというのですが、他人の目の中にはゴミで、自分の目の中には梁があるなんて!

ゴミなら痛くても、見ることができるけれど、梁では痛いどころか、全く見ることが出来ないというか、ありえない喩えで、想像すると漫画の世界。
梁とか、家の土台とか、イエス様は大工だったので、建築からきた喩えがありますが、これはすごい。

ところで、イエスさまはなぜ目の中に梁などという表現をなさったのでしょうか。

この梁とはわたしたちの自己中心の罪を現しているのでしょう。

この罪は梁で表現されるほど、わたしたちの自己中の罪はドーンと大きすぎて、どうしようもないものです。そして、この大きな罪は自らを破壊してしまいます。

この破壊的な自己中を抑えてくださるのは神様だけです。
神様に自己中心の思いを取り除いていただかないと、相手の姿が正しく見えません。
ですから、その梁が取り除かれると、相手の人がはっきり見えて、人の目のゴミも取ってあげることもできるでしょう。

神様に罪赦された自分ですから、本当は人にも愛に満ちた行動をしたいと思っているのに、罪の性質があるので、ついつい他人には厳しく、自分には甘くなってしまいます。

たとえば、子供がお茶をこぼしたら、「なにやってんだ!」と叱るのに、自分がこぼした時は、「お父さんらしくないな。おまえたちのようなことをしちゃたよ。」と気まずそうにして終わる親がいると何かで読んだことがあります。
そんな親を見ていたら、子供もそんな大人になるでしょう。

クリスチャンは信仰によって、神様から罪が無条件で赦されているのですから、わたしたちは自分の目の中の梁に気付き、それを取り除く努力をしなければなりません。

それにはイエスさまの愛を聖書から知ることが大事です。

主よ。どうぞ、わたしたちの目の中の梁を取り除いてください。罪に気付かせてください。愛ある行いを御言葉によって歩ませてください。

第1ヨハネ4:7~11
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」

今日も御言葉に感謝して救い主イエス.キリストの御名を通してお祈りいたします。
アーメン。

2017. 3/17
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by yuuchinpuutan | 2017-03-17 18:43