アブラハムの信仰
2017年 07月 12日
(ヘブル6:10)
聖書通読 ヘブル6章
ヘブル人への手紙の著者は、9節で「愛する人たち」と呼びかけ、読者に信仰の確信を保ち続け、怠けることなく、忍耐をもって人々に仕える愛の歩みをつづけてくれるように励ましています。
当時、迫害からユダヤ教に戻るユダヤ人も多かったようで、著者は旧約の人々のことを出してキリスト者たちを励ましています。
そして、6章では良きお手本として、アブラハムをあげています。
15節「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」
わたしはアブラハムの信仰を見習いと常々思うのですが、それは大変勇気が必要です。
とくに見習いところは、
創世記12:1「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」
4節「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。」
アブラハムはその歳になっても神様の言葉に従い、住み慣れたところを捨て、どこに行くか分からない状態ででかけていきました。
なんと素晴らしい神様への信頼でしょう。
わたしだったら、あれやこれや言い訳を言ったり、先の事を心配して、頭をかかえていることでしょう。
しかし、クリスチャンの信仰の歩みは、神様の約束と、その約束を確証する誓いによって守られ、保証されますから、歳を取っても神様を信頼して前に進まなければなりません。
イエス様ご自身はそのようにして約束のものを手に入れた先駆けでいらして、大祭司としていつも神様と共におられ、弱いわたしたちのために神様にとりなしておられるのです。
わたしたちはそのとりなして下さっているイエス様を信じ、忍耐を持って、信仰の父であるアブラハムの歩みを習う者でありますように。
ローマ4:20~25
「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
今日もみ言葉を心から感謝し、イエス.キリストのお名前を通してお祈りいたします。
アーメン!
2017 7/12