葡萄の木
2017年 08月 24日
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
(ヨハネ15:1~2)
聖書通読ヨハネ15:1~27
聖書ではよく「葡萄」が出てきます。イエス様も喩えばなしに「葡萄」をよく使われました。
イスラエルではよく葡萄が生ったからでしょうか?葡萄酒も出てきます。イエス様は葡萄酒でご自分の血を喩えられました。
旧約聖書では、葡萄はこの世で神様がわざをなさる時の、イスラエルの実り豊かさを象徴し、過越の祭りの食事での、葡萄の実は神様の民に対する慈しみを象徴するそうです。
旧約聖書 イザヤ5:1
「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。 そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。 わが愛する者は、よく肥えた山腹に、 ぶどう畑を持っていた。」
イエス様はヨハネ15章で、ご自分を葡萄の木に喩え、神様は枝に実が結ぶために世話をする農夫に喩えていらっしゃいます。
その枝は「わたしはクリスチャンです。」と主張する人ですが、その枝は実を結ぶ枝と、実がならない枝があります。実がならない枝はうわべだけのクリスチャンのようです。
そして、農夫である神様は、実りの無いうわべだけの枝を切って投げ捨てますから、その枝は枯れてしまいます。
実を結ぶ枝は、さらに良い実をならせるために神様は刈り込みをなさいます。
この刈り込みの喩えはわたしたちが神様からうける訓練、チャレンジです。
それは痛く辛いものですが、イエス様の木にとどまり神様から生ける水、光を頂くことで必ず良い実を結びます。
それは、愛、喜び、平安に満ちた実です。
そしてこのわたしたちの豊かな実によって神様は栄光をお受けになります。
ヨハネ15:8
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
ヨハネ15:1のイエス様のお言葉は、わたしたちクリスチャンへの警告であると思います。
わたしたちは真にイエス様につながり日々生き生きと生きているでしょうか?
そのためにわたしたちに大切なことは、聖書にあるみことばを学ぶことです。
真のぶどうの木であるイエス様とつながるということは、み言葉を通してつながるということです。
それはわたしたちが永遠のいのちに至る道を歩んでいるということです。
わたしは母の介護中に毎朝早く起きて、デボーションを始め、わかちあいをさせていただいて2年半になります。
聖書を開く前に必ずお祈りすることがあります。それは、
「今日1人でも良いですから、共にみことばを分かち合う信仰の友をお与えください。」と祈ります。
わたしたちは1人ではめげてしまうこともあります。しかし、励まし合い、支え合う信仰の友がいて、倒れても立ち上がることができます。
今日も葡萄の木であるイエス様から生ける水をいただき生き生きと生活ができますように。
励まし合う信仰の友を与えていただけますように。
ヨハネ15:12~14
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」
主のみことばがわたしたちの中で実を結びますように、イエス様の御名によってお祈りします。
アーメン。
2017 8/24